新川柳作記念館 Ryusaku Shinkawa Memorial

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父の急逝

商売熱心であった父 與重

1917年(大正6年)9月24日、父が38歳という若さで帰らぬ人となった。

父・與重は新川家六代目常次郎の三男として生まれた。父は、技術を身につけて世に出ようと考えたのであろう。まだ交通機関も発達していない明治末期、若くして東京へ出ました。

松任駅より敦賀まで汽車で行き、敦賀港から東京まで船の旅であったという。東京で足袋の制作技術を習得して、松本村に帰り、同村のふでと結婚、松任町安田にて「東京足袋」として商売を始めた。

刺し子足袋の強くて丈夫な商品を発案して売り出し、大変な人気を得た。私が生まれた頃には防水合羽「西洋合羽調進所」の看板を掲げて発売するなど、アイデアに富んだ技術者であった。

家業は順調に伸びていたが、父はふとした風邪がもとで肺炎を併発、38歳という若さで帰らぬ人となった。その時、母は37歳、それまで幸せそのものだった私たち一家の暮らしは、父の突然の死という悲劇に巻き込まれ、暗転してしまった。

あまりにも大きな衝撃で、母乳も止まり、母の弟が毎日、一里半の道のりを自転車で実家から牛乳を運んでくれた。
そのお陰で私は生かされたようである。長兄11歳、姉8歳、次兄6歳、そして柳作2歳2ヶ月の私達を残しての父の急逝だった。