新川柳作記念館 Ryusaku Shinkawa Memorial

ACE

戦後を郷里で

昭和20年9月10日に除隊となり郷里の金沢市金石町の長兄の家へ帰ることができました。

長兄の家には母もおられ、玄関を入った私に抱きつかれ、「よう元気で帰ってこられた」と、喜んで下さいました。そして、留守中の9月7日に家内の実家で長男が生まれたことも聞かされました。私は加藤忠商店の加藤賢太郎社長のお名前から「賢」の一字を頂戴し、賢一郎と名付けました。息子が賢い人間になるようにと願っての命名です。

さて私が帰郷して三日目だったかと思います。金沢税務署から税金の納付通知が届きました。私には合点のいかない話です。早速、金沢税務署に出向くと、すでに決定書が来ているから納税してもらいたいとのことです。私は三日前に終戦で千葉県から帰ったばかりで、全然商売はしておらず、戦時中に徴用を受けた際に前納していることを述べたところ、その顛末を書いて欲しいとのことでした。書いている時に私は「大阪の自宅営業所が3月の空襲で丸焼けになりました。今度見に行くのです」と行った途端、係員の態度が一変しました。「被災者であれば税金は結構ですよ」と係員が言ったので、税金問題は一応一件落着しました。

終戦当時、家内は長女とともに実家に身を寄せていましたが、いつまでも厄介をかけてもおけず私は妻の実家を訪ねたのですが、妻と長女と生まれたばかりの長男の顔を見たことで、気が緩んだわけでもありませんが、急に持病の胃痛が再発しました。食べ物が欲しくない。それでうすいお粥を作ってもらいながら、手当てをしていました。田舎はちょうど秋の穫り入れで猫の手も借りたい忙しさです。居候の私は周りへの気兼ねもあって、痛みの少ない時は稲刈りに出るものの、途中で動けなくなって帰るような始末でした。胃痛もだんだん少なくなったので、ひとまず長兄のもとへ帰りました。すると金沢で朝日航空に勤めていた友人から、自分は郷里に帰るので、その後へ入ってくれるようにとの申し入れがありました。一家4人の落ち着き先がきまったので、早速荷物をまとめ、お米など食料を分けて頂き荷馬車を一台お願いし、一日がかりで引越をしたのです。ようやく金沢に着き荷物を降ろそうとしたところ、その家の奧におられたご婦人が、「私どもが家主さんと交渉し家の前の部分もお借りしました」ということでした。友人はすでに郷里に帰ってしまっているので、やむ得ず下ろしかけた荷物を再び積んで、金沢の長兄のもとへ逆戻りしたのでした。

長兄の家には、大阪から次兄も帰郷していて、久しぶりに母を中心に兄弟3人が住むことになったのです。戦後、住宅事情の悪い時節とはいえ、長兄には大変な迷惑をかけた次第です。