新川柳作記念館 Ryusaku Shinkawa Memorial

ACE

やむない退学

小学校教科書

1930年(昭和5年)4月、松任商工学校に進学した。

夏も過ぎ、9月から二学期を迎えようとしていたある日、母が家の暮らしむきについて話し、「お前にはすまないけれど、なんとか卒業するまではと思っていたが、難しくなった」と聞かされた。

1917年(大正6年)に父を失ってからというもの、母と兄は苦労のかぎりを尽くして私たちを育ててきてくれたのである。学業中途でのことと詫びられるが、自分にすれば当然なことである。

「お母さん、心配いりませんよ。明日勤め先を探してきます。安心してください。

小学校6年生の時よりは大分成長しています。今は働くことに自信がついています」と母を慰めた。

この時、私は小学校で先生から教えていただいた「椎の木と樫の実」の話を思い出していた。私はこの話しが忘れられず、辛いことやくじけそうになった時、幾度となく思い出しては励まされた。奉公に出る決意をしたこの時も、私はじっとこの文章をかみしめていた。


            「椎の木と樫の実」
思うぞんぶんはびこった 山のふもとのしいの木は 根もとへ草もよせつけぬ
山の中からころげ出て 人にふまれた樫のみが 椎を見上げてこういった
「今に見ていろ僕だって 見上げるほどの大木に なって見せずにおくものか」
何百年かたった後 山のふもとの大木は あの椎の木か樫の木か