新川柳作記念館 Ryusaku Shinkawa Memorial

ACE

千葉県高尾村に駐屯

金沢第九師団に入営(昭和19 年)

教育訓練招集を終えて朝日航空の仕事に戻っていた私に、二回目の赤紙が来ました。

昭和20年2月、再び金沢第九師団の営門をくぐりました。

今度は前の教育訓練とは違って、いよいよ外地へ出征するらしく、夏の装備で船の舷側を登る縄ばしごの訓練がつづきました。しかし、軍装検査や出発準備を3回もやっているのに、出動命令がストップになります。あとからわかったことですが、戦況は一段と悪くなっていたのでした。そんなことから部隊は急遽編成替えされ、本土決戦に備えて、千葉県海上郡高尾村へと向かうことになりました。

そして五月、部隊は金沢市横安江町の東本願寺の別院に集合、境内は地方からの家族の面会で大変な混雑でした。妻の敏子も当時2歳になったばかりの長女佐陽子を連れ、母とともに見送りに来てくれました。

千葉県海上郡高尾村は、国鉄(現・JR)成田線四街道駅に近い農村で、部隊は学校を宿舎にしました。村での現実の駐屯生活は、意外にのんびりしたものでした。九十九里浜の近くの山々に、速射砲を据える仕事でした。部隊は壕堀りと木材の切り出しで、私は大工作業に回され大工技術者として材木の処理班になりました。元大工だったという同僚から手ほどきを受けて、下駄や釘を使わないで箱を作る技術を教えてもらい、村人との交流もあって、時にはのんびりした気分を味わうことができました。

さて戦局が進むにつれてアメリカ軍の飛行機が、この僻村にまで襲来するようになり、千葉市に空襲のあった日は、銚子沖にアメリカの航空母艦が姿を見せ、艦載機が朝から夕方まで終日襲来するのに、これを迎え撃つ友軍機の姿はなく心細い限りで、全く情けない有様でした。

戦う気力はあっても、武器、弾薬などの資材が乏しくてはどうしようもありません。アメリカ軍は九十九里浜の沿岸に本土上陸作戦を展開するとの噂さえ流れていました。