新川柳作記念館 Ryusaku Shinkawa Memorial

ACE

「不況」と「うわさ」

大掛かりな宣伝が始まる 東レナイロンエースバッグの商品パンフレット(昭和29年)

発表展示会を終えると、さらに東レナイロンエースバッグを知っていただくために、ラジオ放送・業界紙などで大々的に宣伝を始めました。東レさんには積極的な宣伝を、髙島屋大阪店さんには販売協力を頂だき、1954年(昭和29年)5月中旬には品切れが出る程の好調な売れ行きでした。しかし6月に入るとデフレが進み、革製バッグの上代は半分に、ナイロン製は特価品だけが買い求められる等、事態は急展開。8月には返品が続き在庫品が増える一方となりました。

とうとう私は協力工場に出向き、「生活費ほどのお支払しか出来ませんが、どうか一カ月ほど休業ください」と、減産をお願いしました。

そしてもう一つの難題、ゴム剥離の解決に研究を重ねていたこの頃、私の耳には様々な声が届くようになります。同業者からは「新川はナイロンで東レに踊らされている」というものや、お得意先からは「必ずやり遂げなさい」と激励もありました。人間は窮地に陥って初めて人の心、本当のことが見えるようになるものだということを身にしみて感じた出来事です。

しかし、この苦境が海外へ眼を開く契機となるとは、この時は思いも及びませんでした。